開催概要
新潟にかつて人とともにあった潟「鎧潟」。
まだ辛うじて残る土地の人の記憶と残された写真などの記録を辿り映像化し
そのあり方を探るとともに、
イギリスの湿地帯ブローズを訪ねた野垣成恵氏、
水辺と人のあり方を長年模索してきた大熊孝新潟大学名誉教授(土木工学)にお話をいただき、
その後意見を交流する公開ディスカッションを行い、
新潟で「潟と人間が共存する条件」を探る「映像」×「トーク」の複合シンポジウムを開催します。
第三部 14:30 ~
講演『越後平野の特徴とかろうじて残された潟群』
講演 : 大熊孝氏(新潟大学名誉教授)
「江戸時代初期の越後平野は、砂丘で抑えられ、河口は信濃川と荒川の二つしかなく、かつ日本海は干満の差がなく、潟が無数に存在する低湿地帯であった。ここに18本もの放水路が造られ、強力な排水ポンプを数多く設置し、内水面の水位を海面下に設定し、大地の中に水の動きを起こさせ、湿地帯を干拓して穀倉地帯を作り上げてきた。ここには行き過ぎた開発も見られるが、かろうじて残された潟群には渡り鳥が飛来するとともに、市民の心の癒しとなる豊かな自然を提供している。さらに、近年では干拓された水田を潟に復元する事業が行われている。この様な状況から越後平野のラムサール条約登録の可能性を探り、今後の越後平野のあり方を考える」
鎧潟とは
かつて新潟県西蒲原郡(現・新潟市西蒲区)の旧巻町、旧西川町、旧潟東村にまたがって存在した潟湖。
越後平野の湖沼の中でも東西、南北に2.5kmと最も大きな潟だった。
鎧潟周辺は農業とともに漁労(フナ・コイ・ウナギ等)・狩猟(カモ・渡り鳥等)・採集(ヒシの実・蓮等)という縄文以来の暮らしを継承しつつ、舟遊びに釣り、美しい四季の風景に憩うなど、潟の豊かさを享受しながら潟と共生してきた。
標高が低く度々水害に見舞われてきた周辺の低湿地では、
江戸後期より鎧潟・田潟・大潟の三潟の水を抜くための新川掘割工事をはじめ、土地改良や耕地拡大の努力が続けられてきた。
明治に入り干拓が進む前の鎧潟は、遊水池としての役割が大きかったが、戦後、急速な食糧増産と周辺農家の要望により、全面開拓の計画がなされ、昭和33年「国営鎧潟干拓建設事業」が着工。
潟に流入する3河川を新たに開削した水路に移し、5基の排水機場を造って潟水を排水するという大事業を展開した。
昭和41年に全面干拓が完了し、翌年234haに及ぶ水田が造成されて現在に至る。
(写真:石山与五栄門)
協 賛
株式会社 アクアデザインアマノ
株式会社 重川材木店
デザインルーム アマノ








